ネタバレしています
この記事は、ピクサー映画『レミーのおいしいレストラン』を扱ったものです。
ストーリーの詳細に触れているので、まだ見ていない方はご注意ください。
ついにゲットォォォ!!!
先日長年欲しかったレミーのフィギュアを、ついに手に入れました!
Blu-ray発売時に販促用に作られたものらしく、元々は非売品。
それ故オークションで高値で取引されているのを、長いこと羨ましく眺めていましたが、ついに意を決して購入。
その記念に、ピクサー映画の中でも特に思い入れのある本作『レミーのおいしいレストラン』を取り上げたいと思います。
日本での人気はいまいち
この映画はご存知の通り、主人公であるネズミのレミーが天才シェフ・グストーに憧れて、ネズミでありながら非凡な才能を発揮し、彼亡き後のレストランを盛り返すサクセスストーリです。
第80回アカデミー賞で長編アニメーション映画賞を受賞したりもしているようですが、はっきり言って日本ではあまり人気はないでしょう。
マイナーだと言っても過言ではないかと。
そうなった要因は、主題が日本人にはあまり馴染みのないものだったからだと思います。
そしてその主題がわからないと、なぜネズミが料理を作る必要があるのかが理解できず、レミーの成功に感情移入できない気がするんですよね。
では、この映画の主題とは何なのでしょうか?
差別を扱った本作
見出しにも書きましたが(笑)、この映画は差別を描いたものです。
もっとはっきり言うなら、アメリカにおける黒人差別を描いています。
映画の中盤で久々に古巣に戻ったレミーが人間に理解を示した発言をすると、お父さんのジャンゴが外に連れ出し、ネズミ駆除のお店を見せますよね。
このシーンだけでも十分衝撃的ですが、この首をくくられて殺される、というのは、ビリー・ホリディの「奇妙な果実」にあるように、黒人差別の象徴です。
※ビリー・ホリディの「奇妙な果実」
1940年代に活躍したジャズ・シンガー、ビリー・ホリディの代表曲の一つ。「奇妙な果実」とは、木にぶら下がる黒人の死体のこと。
wikipediaからこの曲ができるきっかけになった黒人が木に吊るされて殺されている写真を見ることができますが、刺激が強いのでここには貼らないでおきます。
つまり、本作で描かれているネズミは黒人のメタファーなんですね。
だからこそ、グストーの「自分の出身を気にして限界を決めないこと」という発言が響くわけです。
例えるなら、和食の最高峰・割烹の世界に欧米人が入ってきたような感じでしょうか。
そしてこの映画で描かれる人間が、白人を表しています。
だから、お父さんがレミーに何度も迫っているのは、お前は我々と一緒に黒人社会で仲間と支え合って暮らすのか、それとも無理して白人の世界にいくのか?ということなんです。
実際、アメリカの黒人公民権運動活動家・マルコムXの伝記映画でも若き日の彼が、燃えるように痛む強烈な薬剤を使ってまで縮れた髪をストレートにし、白人みたいだと喜ぶ姿が描かれています。
とにかく黒人差別が激しいアメリカでは、白人=善、黒人=悪という価値観が蔓延り、当の黒人自身も少しでも白人らしくあろうとしていました。
(少なくてもマルコムXが若い頃の時代は)
だからレミーのお父さんは、人間世界(=白人社会)に変に迎合せず、ネズミらしく=黒人らしくいろと説いているんですね。
例え残飯漁りでも、それがネズミの自然なんだと。
それに対してのレミーの反論「自然は変化するものだ/僕たち次第でね/まず僕らが変わらなきゃ」がかっこいい。
その直前に、仲間が殺されているのを目の当たりにしているだけに。
また仲間のそんな姿を見た後だからこそ、「運がよければ“先”へ」なんでしょうね。運が悪かったら殺される覚悟もある。
実際、スキナーの捕獲から脱出してレストランに戻ったとき、従業員総出で殺しにかかるのを受け止めようとするレミーの姿が描かれています。
おぉ、こう書いてるいると、絵面が可愛いからあまり自覚してなかったけど、結構残酷な描写が多いんですね^^;
イーゴがお店に来た夜、リングイニから差し出された手も辞退し、お父さんやエミールと一緒に下水道に行くことも拒んだレミーは、従来のネズミ(=黒人)とも、無理に人間(=白人)らしく振る舞うのとも違う、新たな道を開拓したことを示唆しています。
それが、ネズミが二本足で歩くというレミーの選択に象徴されているわけです。
さらに自分の幸せだけに留まらず、残飯を漁りごはんの美味しさを味わう習慣がなかった一族に、その喜びとそこからくる精神的豊かさを教え、それが持続的に提供される場を作ったレミー。
「勇敢な者だけが一流になれる」とはグストーの言葉ですが、その勇敢さは美味しい料理だけに留まらず、こんなところにも花を咲かせました。
評論家批判
私がこの映画で感銘を受けたのは、ラストに出てくるイーゴの批評。
以下、ちょっと長いですが引用します。
「評論家の仕事は総じて楽だ/リスクも少なく立場は常に有利だ/作家と作品を批評するのだから/そして辛口の批評は我々にも読者にも愉快だ/だが評論家は知るべきだ/世の中を広く見渡せば/平凡な作品のほうが意味深い/平凡だと書く評論よりも」
ふむふむと納得する名文ですが、注目して欲しいのは、これが評論“される側”のピクサーの言葉だということ。
つまりここでピクサーは、痛烈に評論家を批判しているわけなんですね。
リスクも取らずにこっちが必死の思いで作ったものをアッサリ酷評しやがって!と。
そしてその酷評を楽しむ読者にも、苦言を呈しているわけです。
続くイーゴの言葉を借りて、こうも言っています。
君たち評論家の仕事は既に一定の評価を得ているものに言及するなどという楽な仕事ではなく、自らの知見と影響力を使い、リスクも冒して、世間が冷淡に扱う新しい才能を見出しそれを広めることなんじゃないか?と。
このイーゴの批評記事には、ピクサーの大いなる挑戦を感じました。
意外に好戦的だなぁ、とも(笑)。
一流のアーティスト、レミー
この映画で何より胸を打つのは、アーティストとしてのレミーの姿です。
周囲の援助が一切なかったにも関わらず並外れた料理への情熱と探求心で、ついには師と仰ぐグストーを酷評したイーゴにまで、自分の料理を認めさせます。
イーゴがレミー(リングイニ)の料理を食べにレストランを訪れた際、料理が出てくるまでにかかった時間や盛り付け方の感想をメモしています。
どれも評論家にとって重要な評価ポイントであることは、間違いありません。
しかし、レミーが作ったラタトゥイユを口にした瞬間、その評論をするために欠かせないペンを床に落とし、批評を忘れて純粋に料理を楽しんでいます。
このイーゴの姿は、一流のアートに出会ったときの心情を非常にうまく表現していると思います。
人生には時として、今までの価値観を全てひっくり返すような素晴らしい出会いの瞬間があります。
きっとこの映画を作った人たちは、そういう瞬間を何度も体験してきたんだろうな、ということも窺わせます。
そしてそれは、常に“驚き”とセットです。
つまり驚きとは、一流のアーティストによってもたらされる感情なのです。
ラストの食事のシーンでリングイニにデザートの種類を尋ねられたイーゴが、レミーに向かって「私を驚かせて」と言っているのは、イーゴがレミーに一流のアーティストとして全幅の信頼を寄せている証です。
常に受け手側を驚かせるなんて、とてつもない難題だと思いますが(しかも相手はフランス一厳しい舌を持つ男!)、それをウィンク交じりで爽やかに請け負うレミーの力量。
このシーンは何度見ても必ず泣いてしまいます。
泣くようなシーンじゃないことは、よくわかっているのですが(笑)
レミーという一流のアーティストに出会って初めて、イーゴがグストーの信念“誰でも名シェフ”の真意を理解するところも素晴らしい。
先ほど触れたようにネズミが差別されている黒人のメタファーだと思って読むと、さらに味わい深い文章です。
「誰でもが偉大なシェフにはなれない/だが どこからでも偉大なシェフは誕生する」
現代的なエンディング
この映画のエンディングも印象的ですよね。
評判の下がっていた一流レストランを盛り返し、相棒のリングイニが自分の尽力でオーナーになり、バックにはエンディングテーマ「ごちそう(日本語訳はこちら)」が流れ、高級な家にも引っ越して幸せの絶頂のようなシーンがあります。
終わりかな?と思わせる流れですし、実際これだけの成功を収めたのだから、ここで終わる映画は多い気もします。
でも、本作ではここから真のハッピーエンドに向けて、さらに一騒動があります。
紆余曲折を経て家族やリングイニと和解し、皆で力を合わせてついに宿敵イーゴにも実力を認めさせることに成功。
このまま順風満帆な生活が続くのかと思いきや、その直後にレストランは閉店してしまいます。
しかし悲壮感はなく、個人経営の小さなビストロを開いて、心温まるエンディングを迎えます。
グストーのレストランのような星を持つ一流店では、料理はもちろんのこと、サービスや内装、お店の雰囲気、食器、ナプキンの折り方、果ては席と席の間隔まで、あらゆることが厳しい審査の対象となります。
ネズミがキッチンにいるなんて、言語道断も甚だしいでしょう。
そういう厳しさに疲れてもっとカジュアルなビストロという形態のお店を持つシェフが多いという事実が本作のエンディングのヒントになったとは、監督のブラッド・バードも語っています。
一昔前なら、グストーのレストランのような一流店のシェフになることがある種のステータスだったかと思いますが、それよりも自分のやりたいようにやる道を選ぶというエンディングは、昨今の風潮にとても合っている気がします。
映画的な成功だけじゃなく、そういう現実的な感覚も取り入れているからこそ、この映画はここまで魅力的なんでしょうね。
グストーと会うことのなかったレミー
もう一つこの映画で驚いたのが、レミーに語りかけるグストーが実はレミーの想像の産物だということを、繰り返し強調している点です。
最初にイラストのグストーが話し始めたときは、普通にグストーの魂的なものが語りかけているのだと思いました。
ところが早い段階でそれは否定されるのです。
このグストーが表すのはもう一人のレミー。
レミーの良心というか、こう信じたいという気持ちの部分だと思うのですが、私が好きなのは、結局レミーはグストーに会うことはついに無かった、という事実です。
わずかなTV放送、そして何より彼の著作「誰でも名シェフ」を読むことでだけグストーと彼の考えに触れていたレミー。
そんな彼が誰よりもグストーの信念を体現する姿に、何というか、深い希望みたいなものを覚えるんですよね。
心から愛する、けれども決して会うことのできない私自身のスターにも、私の心の中で生きて、私を正しい道へと導いてくれる指針にはできるんだなぁ、と。
『ノートルダムの鐘』との繋がり
最初の方に、リングイニがレミーを瓶に捕らえ、スキナーの命令で外に殺しに行く場面がありますよね。
ここでノートルダム大聖堂が画面に映ります。
陰鬱な色調、瓶内にこだまするレミーの浅く早い呼吸と相まって、子供向けアニメーションとは思えないほど、主人公の死をリアルに感じさせます。
このときのノートルダムは死の象徴として使われていますが、他の意味も込められているように感じます。
それは、本作がディズニー映画『ノートルダムの鐘』を下敷きにしているという暗喩ではないかと。
どちらも差別を主題に置き、周囲の人間から厄介者扱いされていた主人公が誰よりも優れたアーティストだったという点も共通しています。
両方とも舞台が少し前の時代のフランスというのが興味深いですが、きっとこれを現代のアメリカにしてしまうと、あまりにも生々しくなってしまうのでしょう。
ディズニーは最近でも差別を真正面から取り上げた『ズートピア』を製作しました。
子供向けアニメーションの世界にも関わらず差別というデリケートな問題を繰り返し描くのは、アメリカにおける人種差別が根深い問題なのはもちろん、誰もが楽しめる夢の国・ディズニーランドという理想を掲げているディズニー社の気概の表れなのかもしれません。
本作に、もっと光を!
以上、私がこの映画の素晴らしいと思う部分を並べてみました。
これ以外にも、キャラクター設定やアニメーション、音楽などなど、多くの分野でそれぞれに一流のスタッフの情熱と才能が集まって、これだけの傑作が作られているんだなぁと、Blu-rayの特典映像を見て改めて実感しました。
一流スタッフといえば、料理人としての才能は無かったけどギャルソンとしては一流だったリングイニ、という設定もいいですよね。
そして、レミーの生み出した数々の料理を忠実に再現するコレット。
この内の誰が抜けても、ビストロ・Ratatouilleは成り立たないという描写がまた素敵。
これほどの映画なので、もっとその魅力をたくさんの人に知ってほしいし、このブログが少しでもそのお役に立てれば本当に嬉しいです^^